「週1回で月1万円の個人指導」の可能性

 日本に住んでいる平均的な世帯にとって、教育費は頭の痛い問題です。大学や専門学校は、学費だけで年100~150万円が相場。国公立だともう少し安価になるでしょうか。いずれにしても、生活費やお小遣いまで加えると、4年で家が建つくらいのコストがかかります。ですから、中学生・高校生向けの個別指導塾が月1万円だったら、ありがたいと思うご家庭は多いでしょう。
 ということで検討してみました。この月1万円個別指導コースは、ネット経由のオンライン指導ならばできそうです。パソコンによるテレビ会議のイメージで、課題のチェックや質疑応答、解き方の解説を行います。コロナ禍でZoomによるテレワークが話題になりましたので、ずいぶん普及したように思います。受講する側は、予めネット接続されたパソコンに向かい、毎回、まじめに学習意欲をもって授業に臨む必要があります。最初に1回程度は、希望により面談もいたします。面談場所は、当面は私が徒歩で行けるところにかぎります。とはいえ、業界の標準価格を破壊して、経済混乱を起こす意図は全くありません。
 実は、この方式で成果をあげることができる中学生は、ある意味、塾での個人指導は不要なのです。多くの生徒は、塾に行くから/行かされるから勉強するのです。塾に来ている間だけは、そこそこ勉強します。フツーの生徒は、塾に来ても学習時間を少なくしようと努力するくらいのものです。中学1年生までではほぼ全員、この傾向があります。学校で起きた無駄話を講師にふったり、好きな学習だけですまそうとしたり、学校の宿題を片付けることを最優先にしたり、、、保護者としては、家で勉強しない子どもでも、塾に行っている間だけは勉強していると安心できます。その安心感を塾費で買っているのかもしれません。
 実は、中学2年の夏休みまでは、家庭学習の必要性は大きくありません。学校の授業がさっぱりわからないといった状況でないかぎり。ですから、フツーの成績の生徒ならば、塾に通うだけで多くは成績がアップします。特に体育系の部活で体力と精神力を鍛えた生徒は、短時間で集中した学習を効率よくこなすことができます。塾に通わせたら成績があがったというお子さんは、たいていこのパターンです。ちなみに、小学校は学校の授業と練習だけで内容的には完結しています。授業内容に遅れのない児童は、家で学習するとすれば、上乗せの内容や、読書などを中心にします。宿題は、学習習慣つくりのために出しているのが実態です。ですから、小学校から塾に通わせると、他の子が塾に行ってないだけに、優位に立てます。この優越感をまちがった方向に使うことのないように、くれぐれもお気をつけください。
 話しを戻して、いやいや塾で学習する生徒がほとんどでも、中学生ならばご家族の協力で、高校生ならば自己管理で、この通信教育でも成果をあげることは充分にできます。基本は次の3段階の内容です。これを毎回繰り返します。
1. 到達レベル事前チェック 課題プリントや、学校の教科書・問題集のチェック、ノートの確認
2. 到達レベルに合わせた課題をその場でやって/解いてチェック 学校教材や、独自配布プリント問題をどのレベルでできるか。ここでのレベルは、解くのにかかった時間や完成度のことです。数学ならば解答にいたる数式とメモまでチェックします。英語ならば文法に則った和文の表現など。プリント問題はメール送付を原則にしたいところです。内容を画面でみるか、ご家庭でプリントアウトするかしていただきます。
3. 次回までの課題の確認 学校課題が多く出されている場合は、その課題内容を確認します。
安価で、通塾時間というロスのない学習コースです。ご近所に塾のない方は、ぜひおためしください。
※ネットや機器設定については、ご相談ください。WiFi環境が既にあり、パソコンでGmailかZoomをやっておられれば、完璧です。

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「論評する」とは?

大学生にしばしば課される「論評」について、わたしなりの考えをまとめてみました。ご意見、異論、歓迎です。

「論評」とは、字の通り、「論じて評すること」です。
辞書を引けば、「ある物事の内容・結果などを論じ、批評すること。また、その文章」等と書かれています。
「論ずる」には、出されたテーマに関してまず自分の主義主張とか意見があるということが前提になります。他者の論理の寄せ集めでは論評になりません。
また、主観的に一方的な意見を述べるだけでは「自己主張」にしかなりません。もう少し客観的で、第三者が納得できるよう論理展開された意見でなければなりません。
さらに、自分の主張に対する他者の意見・主張も加える必要があります。それには直接的なものも間接的なものもありえます。
その他者の論理が、自分の主張を「評価」し「肯定」するものであったり、逆にたりない点をつく「批評」であったり、真っ向から「否定」するものであったりもするわけです。
それらを包含して、自分の結論なり考え方をわかりやすく納得できるように示したものが「論評」です。

ということで論評するには、
・テーマに対して、自分の意見・論理・主張を持つことがまず必要
・そして同テーマに対し、他者の論理を広く知っている=認識していることが必要。
 それも自分の論理に対し、肯定的なもの、否定的なもの、その両方を。

大学等で「・・・について論評せよ」といった課題が出された場合、
・そのテーマについて、あなたはどの程度の認識をもっていますか?
・その認識の下、あなたはどのくらい文献調査や実地調査等をこれまでやってきていますか?
・あるいは日常生活のなかで、そのテーマに関しての「気付き」がどれだけありましたか?
 :
と、質問されていると思ってください。

論評の書き方自体は千差万別です。
最初に自分なりの結論を述べて、その裏付けを様々な文献を引用して書き加えていく方法でもよいでしょう。古典的な「起承転結」や「序破急」も参考にしてください。いずれにしても、「あなたが論評する」のですから、あなたらしい独自の視点・観点があってほしいものです。

例えば、「安楽死について論評せよ」という課題が出されたとします。自分は賛成なのか反対なのか、その理由は何、まずこれらの点は欠かせません。あなたの身近に高齢者や病弱な方がいるかどうかで、あなたの考え方も認識の深さもちがってくるでしょう。社会や時事的問題にどれだけの問題意識をもっているかで、論理の出発レベルがそもそも異なるでしょう。

自分の意見をまとめたうえで、現状の調査も必須です。短期にまとめるには、書物やネット、新聞、専門誌等の文献調査が多くなります。
・日本における賛否の意見はどうなっている?
 医学界は? 法曹界は? 政治家は? 一般の人の意見は? 高齢者は?
・安楽死に関係して過去にどのような事例が出てきているか? 事件の例や当事者家族の思いは?
・老衰以外の死因の現状は?
・安楽死を認めている国の現状はどうなっている?
 いつ認めたのか? その考え方や条件は?
  :
等々。ネットならば、様々なキーワードで検索ができて、しかも書籍も例示してもらえます。一般には、時間をかければそれだけ濃密な情報を得られるものです。
さらにもし可能ならば、アンケートなどの実践調査も裏付け資料として貴重です。あなたの論評の貴重な材料になりえるでしょう。但し、実施方法や対象者の選定、設問内容、量、タイミングなど、アンケート実施前の検討事項ですら、多すぎるくらいあるでしょうが。

いずれにせよ、説得力ある論評を仕上げるのは労力のいる作業です。それだけに、それを読んで評価する側の教授は、あなたが大学生の本分である学問に真摯に向き合っているか、その一端を知ることができるのです。

 

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AIの台頭で人間の仕事が奪われるか?

 まがりなりにも40年間、情報処理業界にかかわってきた私からすれば、「またこの問題か、、、」の感が否めません。
 半世紀ほど前に、JR緑の窓口や銀行オンラインが実用化されました。そのころ、簿記を学んだ高卒女子を大量採用するより、ATMを導入した方がトータルコストが安くすむ。そんなコスト削減論理で、銀行は高卒女子の採用を急速に減らしていました。ATM導入によって、高卒生の就職先が減ったのはまちがいありません。
 また、1990年代、私がコンピュータ専門学校で働いていたころ、パソコンのオフィスソフトを駆使して1人で二人分の仕事をこなせる人材を、専門学校で養成していました。

 つまりずいぶん前から、ICT化により省力化を図ってきました。それはまちがいありません。でもそれをもって「人間が不要になった」と言えるでしょうか。人手に頼っていた単純作業が部分的に減ったのであり、人間が全面的に不要になったわけでは決してありません。

 2020年現在、私は社会人向けに簿記講習をしています。仕事の一部です。主に日商簿記2級資格をめざす講座で、今でもそれなりに人気があります。この講座では、企業の取引を仕訳し、元帳に転記し、集計して試算表をつくって損益計算書、貸借対照表という財務諸表に仕上げる練習をします。その一連の過程を学んだうえで、時間内に問題をこなせるように繰り返し練習します。集計計算は多いのですが、パソコンは使わず電卓で手計算します。仕訳は、取引を記述した文章を解釈して、簿記の勘定科目に振り分ける作業です。これを例えば、変動する外貨建て取引の場面で、どう考えてどの科目を使って記帳すればよいのか学びます。

 これらの一連の作業工程が、実務の現場では、仕訳をするだけになります。あとの処理はパソコンがやってくれます。10万円程度のパソコンと、3〜4万円の会計ソフトを購入すれば準備OKです。それこそボタンひとつで財務諸表ができあがるのです。

 さてこういう時代になって、簿記を学ぶことは不要になったでしょうか。現実は真逆です。パソコンがほとんどの処理をしてしまうからこそ、その処理内容を理解し、会社の状況や取引条件に応じて、標準的な処理の是非を判断し独自の修正処理等を加える必要が出てきます。標準の手順からはみ出した内容について、人間が適切な判断を加えながら業務を進めるのです。

 一方で、米国などでは、AIが膨大な判例を自動で集めて、弁護士の仕事を代行しているという事実もあります。こちらも、専門性こそ高いかもしれませんが、あるいは高いように見えますが、基本はルーチンワークです。だから機械化ができるのです。文字認識で膨大な判例をキーワードで絞り込んで、またさらに別のキーワードを加えて、最後に専門家が文章を読んで判断しているのでしょう。

 昔も今も、コンピュータ応用技術によって不要になった作業はルーチンワーク的なものです。決まり切った内容を、高速かつ正確に機械が代行するという機械化の1つにすぎないのです。

 様々な形式の請求書から、必要な項目や数字を読み取って、コンピュータに入力する作業はまだ人間の出番が多いでしょう。多様な形式から必要な情報を読み取るには、例外的な部分を判断しなければならず、機械には苦手な作業だからです。これが郵便番号のように限定されたものだと、ずっと機械化しやすくなります。処理量が多ければ、手書き文字認識のための開発投資コストも容易に吸収できます。チェスや将棋、碁のようなゲームの世界で人間を超えるシステムができあがっているのは、検討する世界が限定されている、つまりせまい世界にすぎないからです。

 先の判例集めも含め、今は限定された業界や業務の分野から、コストパフォーマンスに照らして機械化を進めている段階です。SFで描かれているような、人間を超えるAIは現れてはいません。費用対効果というきわめて現実的な理由で、機械化が進んでいるだけです。コンピュータの処理速度は人間を超越したものですから、ネットワークという空間をも超越した環境を利用すれば、かつては想像もしなかった驚異的なシステムができあがるというのも事実ですが。

 

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高校までの学校の勉強は実社会で役に立つか

 私が職業として選択した情報処理業界では、まちがいなく高校までの学校の勉強が大いに役に立ちました。情報処理自体を大学では学ぶことはなく、就職した企業で仕事をこなしながら習得しました。当時の情報処理業界はマイナーでしたので、どこの企業も新人を対象に訓練研修するのが普通でした。

 プログラミングは数学と英語です。英語が得意なら、その分だけ楽にプログラミング技術を使いこなすことができました。ベースとなる基本ソフトウェア=オペレーティングシステムが、アメリカの英語文化の産物です。プログラム言語の表現には、英語と数学の流儀が厳然と流れています。

 また新しい技術は米国発祥のものが多いですから、翻訳本が出版される前に、英語の原書やマニュアル情報で内容を理解できると重宝します。このことだけでも大いに役立ったといえます。

 国語能力は、文化の異なるユーザ側業界からの要望を、プログラム仕様として確定するために必須です。エンドユーザと対面するのは、概念や基本設計、運用の部分です。コミュニケーション能力もまた、各種の打ち合わせにおいて非常に重要です。

 理科や社会は、システム化(役立つアプリを構築)する業界を理解するための基礎として、たとえその一部でも知識があれば重宝します。まったく新たな業界のシステムを受注し、プログラミングを始めなければならなくなったとき、最初に手にする書物は高校の教科書/参考書でした。おしなべてわかりやすく、安価で網羅的なのです。

 そんなこんなで、学校での勉強は、私にとっては実務で直接間接に大いに役に立ちました。

 ちなみに大学でもいろいろなことを学びましたが、実社会で一番役に立ったのは、「簿記会計」「原価計算」の知識でした。どんな企業、どんな団体でもお金を扱います。簿記はそのお金の計算処理にまつわるノウハウを教えてくれます。個人的には簿記3級は高校生全員必須科目に、2級は選択科目にしてほしいくらいです。そうすれば、公的機関でのお金にまつわる無駄な議論を省略できるように思います。なお今は、企業の経理・会計処理は、パソコンが1台あれば、アプリでほとんど事務担当の負担なくできてしまいます。そういう便利な時代だからこそ、簿記を学ぶ重要性は高まっています。パソコンが吐き出す多数の数値を評価するには、簿記会計の知識が必須だからです。パソコン(アプリ)より低い能力では、数表の意味を理解することができないのです。将来AIに仕事を奪われるといった心配をする前に、人間の役割をもう一度熟考してほしいものです。

 

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人生の転機に出会ったニフティフォーラム

 私は1990年代前半、教育関係のフォーラムで全国の有志と意見交換していました。インターネットが普及する前、パソコン通信全盛といえる時代です。

 教育関係者は一家言持っている人が多く、フォーラムには連日、様々な意見がとびかっていました。1994年に愛知県で起きた大河内清輝君いじめ自殺事件については、特に熱い論議が展開されました。ある日、鋭い洞察力をもった方が、新たな視点で独自の意見を披露されました。その文章は当時の会員に相当なショックをもたらしました。非常に納得できる論理展開だったからです。この方の意見は、新聞・TV等の一般情報だけで考察されたものでしたが、マスコミで伝えられることはありませんでした。マスコミに出ない正論も存在していることを再認識させられました。というか、マスコミ報道の浅さが露呈されたといいましょうか。

 こういった経緯のなかで、パソコン通信=文章による意見交換は、不特定多数の参加者に平等な機会を提供する最適なツールだと、個人的に確信しました。

・文章で自分の意見を述べる/アップする
・但し、アップする前にそれまでに寄せられたメッセージを全て読む

 ルールはこの2つだけで、実にシンプルです。それこそ、寝る間も惜しんで文章の加筆、訂正、校正、その繰り返し。寝不足になりながら、電話代節約に知恵をしぼりつつ、お互いに健康を気遣い、教育関係の議論が熱く展開されました。当時のパソコン通信は、音声電話をつかっていましたので、従量制の通話料金だったからです。

 大学への進学を機に東京で暮らし始め、そのまま首都圏の情報処理系会社に就職して約10年。家庭の都合でUターンし、教育の職につき、田舎暮らしを始めた直後のことでした。このフォーラムを通じた活動のおかげで、なんだか日本の教育界の最前線で活動しているような実感(錯覚?)をもてていました。

 令和初頭の現在、ネットではYouTubeやTiktokなどの動画、インスタグラムのような画像主体の情報発信が優勢のようです。それに比べると、文字による情報発信&コミュニケーションは、今ひとつマイナーな感が否めません。しかし文章は昔も今も重要な自己表現ツールの1つ。文章を通じた真剣な意見交換の場は、精神の成長にも欠かせません。日本の国語文化向上のためにも、文章で大いに議論しましょう。

 

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現代の義務教育のあり方

 ここで少々僭越ながら、教育というものを根本から考えてみましょう。このような命題をあなたはどう考えますか。

・未来に生きる子ども達に、今最良の義務教育とは?

 現在行われている義務教育は、未来に生きる子ども達の役にたつものなのでしょうか。早急に改善・改革しなければならないことは何なのでしょう。

 私自身は、大学生になって最初にやったアルバイトが塾講師でした。以来、教育というものに相応の問題意識をもって生きてきました。途中から本業にもなりましたし、それでなくともアルバイトのような形で教える機会があったためです。1970年代後半は、日本のトップ大学をめざすエリート教育の是非と功罪が問われていました。1980年には、金属バット殺人事件のような教育をめぐる凄惨な事件も起きました。以来、いろいろな問題・課題を抱えつつ、今日に至っています。

 若かったころ塾講師を始めて、塾に子どもを預ける保護者の姿勢に問題あり、まずは親の教育から必要と考えたり、たくましい子どもたちのエネルギーに触れて、日本の未来は安泰だと、妙に安心したり。

 学業を終えてからは、10年近く首都圏の情報処理業界で仕事をし、その間、家庭を持ち息子も生まれて、その息子が小学生になったときです。子どもの学習プリントを見て、驚きました。わずかに覚えている自分の小学校時代の学習内容とあまり変わらなかったのです。

 コンピュータ専門学校に転職して後、高校卒業生にプログラミングや情報処理に関連する各種の科目を教えました。仕事の合間に、中学生の勉強支援を頼まれたりもしました。

 いろいろな教える経験と、若者にそれを伝える試行錯誤を経て、時が経ってもあまり変わらない義務教育は、このままでよいと考えるようになりました。英会話やパソコン操作技術、AIとかは、やりたい子、興味をもった子がやればよいというくらいの認識です。もっと言えば、子ども達には英語やプログラミングの前に、日本語と読書と算数・数学です。

 戦後75年、グローバル化が進み、AIやIoTの時代にもなって、義務教育の内容はあまり変化なし。それでよし、です。結局基礎学力というものは、半世紀程度ではそれほど変わらないものなのだという認識です。

 一方で、中学生の国語教科書をあらためて読んで、その密度の濃さには驚かされました。優に現在のビジネスマン向けノウハウ本にして3冊くらいの内容が詰まっているように感じました。単なる論評、報告書、小説だけではなく、プレゼンテーションやコミュニケーション技術に至るまで、もりだくさんの内容に圧倒されました。ビジネスの第一線に立っている大人が読んでも、納得できる内容だと思いました。

 数学が不得意な子どももいれば、社会科が苦手という子どももいるでしょう。体育が苦手な子どもも、家庭科なんてやってられないという子どももいるかもしれません。それでも、義務教育としては、今の教科全てを学んでもらうのが、日本の教育のスタンスです。高校以上でようやく選択科目が出てきます。それはそれで当然です。就職すれば、ほとんどの人がひとつの専門分野に専念します。

 だからこそ、義務教育では全教科をひととおり学ぶことにしたいのです。中学校までの学習内容については、押し付けでも、強制でも、学んで損なことはありません。それが日本の教育のスタンスでありレベルなのです。

 現代の中学高校の生徒を総体としてみたとき、読書等の文字を通じて得られるはずの感性は全般としては貧弱になり、歌って踊るパフォーマンス分野の能力は著しく向上したように思います。一部の環境や才能に恵まれた子どもたちは、50年前より洗練された感性をもっているということは言えるでしょうが。

 私が義務教育を受けた時代から約半世紀、内容に変化はなくとも、子どもと保護者をとりまく周辺環境は激変した感があります。ネットとICT機器を駆使した保護者相互間のコミュニケーションや学校との連絡網。webによる学校情報の伝達配布。最新のオリジナル文献にもすぐにアクセスできる手軽さ。教師のスキルに対する疑念をお持ちの方もいれば、モンスターペアレントの出現に悩む学校側の悩みもあるでしょう。

 変わる周辺環境と変わらない、教科内容。ここに、内容は変わらずとも、それを扱い応用する面での違いが、未来に生きる子どもに、何か、今は見えない大きな可能性と、裏腹の大きな問題を孕んでいるように思えてなりません。

 

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最後は楽しく勉強できるかどうか

 中学数学の代名詞は方程式でしょう。一次方程式から始まって連立方程式、二次方程式と進みます。どなたも二次方程式の解の公式を覚えたことと思います。文章の応用問題としては、「みはじ」つまり、道のり、速さ、時間から解き進める、速さの問題や、濃度の問題が定番です。私の場合、中学数学の計算系の指導においては、これらの定番問題を経て、いわゆる「時計算」で仕上げます。時計算とは、アナログ時計を前提に、「4時と5時の間で短針と長針が重なるのは何時何分何秒か」といった問題です。先日、中学3年時から担当してきた高校2年生に解いてもらいました。既に解いた記憶はあるのですが、あらためてやると少し難しい問題です。結局、紙にメモをいろいろ書きつけて、一度はまちがってやり直して、18分かかりました。本人も独り言のように言っていました。「昔やった問題をあらためてやると楽しいなあ。」今は高校2年生で、ベクトルや三角関数、数列を経て、微積分をやっています。その段階での感想です。

 さてここであらためて、この「楽しさ」の意味を考えてみましょう。勉強の楽しさとは何でしょう。成果を出すとお小遣いをもらえるといった物欲を満たす楽しさとか、クラスで優位に立てる名誉欲を満たすことによる楽しさとかもあるでしょう。でもまあ、当然ながら教える方としては、純粋に数学の楽しさを味わっていただきたいと思います。時計算には定番の等式があるような、ないような。その人の感覚でいろんな式を立てることができます。答えは同じになるとしても、考え方はいろいろ。これをおもしろいと考えられるかどうかです。

 物理をおもしろいと考える生徒は多くいます。しかしそれ以上に大嫌いという生徒が大勢います。やる意味がわからない。公式が多すぎるetc。国語も、普通に好きだと思っている生徒もいれば、難しい漢字ばっかりでわけわからないことを書いてある科目だと考えている生徒もいるでしょう。

 なぜおもしろくないのか。わからないから。

 わからないなら、なぜわかろうとしないのか。嫌いだから。

 嫌いだから、勉強したくないという生徒に、学問のおもしろさがわかるはずはありません。どんな教科でもかまいません。ひとつでも純粋におもしろいと感じる教科を高校時代に見つけられるかどうか。これがその後の人生に大きな影響を与える気がします。

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子どもに勉強させる/していただく 番外編

これまでいろいろな中・高校生達と、ご家族をまじえて勉強のお手伝いをしてきました。ご家族とともに指導方針を検討していくのが私のやり方です。そのなかでベストファミリーともいえるご家族が採用した方法はとってもシンプルです。「小・中学生のうちはゲームを一切やらせない」というルールでした。ゲーム機を買ってもあげないし、家でゲームをやらせることもない。半分は父親が主となって子どもに強制したものです。しかしながら、一方的な強制ではありません。取り決めるまでに家族で充分話し合って、本人もしぶしぶながら了承して、家庭のルールとしたものです。友達がほぼ全員ゲームをしているなかで思い切った決断だったことでしょう。でも、本人も納得していました。「自分の性格上、途中でやめることはできない。」「やれば絶対ハマってしまう。」という自覚もあったようですから。

さて、ゲームを一切やらなかったのなら、らくに充分な勉強時間が確保できただろうと想像されるでしょうか。そんなことはありません。TVもあればマンガもあります。ゲームにハマリ過ぎて時間をとられることだけはなかった、というだけのことです。この平和国家日本は、子どもにとって魅力的なモノに満ちあふれています。それでも、半強制から始まって、子どもながらの自覚を経て、中3までゲーム無しを実践したご家族のチーム力は称賛にあたいします。後に、本人が高校2年生になった時点で、この取り決めの評価を直接尋ねてみました。その返事は、「自分はそんなにできる方じゃない。そうでもしなければ、志望校に合格できなかっただろう。」という謙虚なものでした。徹底的に話し合って、本人の自覚を促しかつ信頼し、精神的な成長を図ることが何より重要だと実感した次第です。

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子どもに勉強させる/していただく 覚醒

さて、小学生から中学を経て、高校へ。果てしなく続くかの教育に関する迷いを経験して、努力また努力の継続。子どもが大学受験する頃には、勉強を好きになれたかどうかが重要です。好きになれないまでも、自覚と意志をもって勉強に取り組んでいるかが問題です。強制的に勉強をさせるような方法が効くのは中学生の1年まで、せいぜい2年生前半くらいまででしょう。3年生ともなると、面従腹背的な態度も出てくるものです。子どもだけを批判してはなりません。保護者の態度が面従腹背を呼んでしまったと考えるべきです。高校の学習においては、範囲が広く、各教科の難易度も相当なものですから、強制されて勉強ができるようになるものではありません。よくても一夜漬け程度の効果を得るのがやっと。つまり、試験が終わったら忘れます。さらに一夜で覚えられるレベルは赤点を免れるくらいがせいぜい。高校の学習は、自己の意志、使命感、プライドをかけてするものです。小中学生のようにはいきません。

もし、子どもさんが今高校生で、小学生のころは神童と呼ばれ、中学生のときはトップクラスで、今は成績不振に悩んでいるとしましょう。既に塾に通わせたり、良い指導者に預けたりと種々の手を尽くしてきたと仮定します。そんな場合、まず勉強へ意欲、向学心があるかどうかの確認が重要です。子どもながら親の期待を背負って、成績をアップしたいとは思っていることでしょう。でも本人の主体的な向学心はいかがなものですか。低迷する成績にもかかわらず、本人は勉強をやりたいと言っていますか。そうでないなら、どうしますか。認めたくない気持ちはわかりますが、それは勉強というものがその子に向いてないということではありませんか。少なくとも現在の勉強には興味をもてないということでしょう。いさぎよくあきらめるのも一方法です。

ご両親が、例えば卓球が得意でご夫婦ともにインカレまで参加した実績があるとしましょう。誉ある卓球一家に生まれた一人っ子という仮定です。当然のようにわが子のために幼いころから練習環境をつくって、卓球の魅力を伝えようとするでしょう。中学生くらいまではまず問題ありません。でも、高校になったら本人の意思を尊重することにしませんか。客観的にみれば大会での成果もたいして出ていない、それどころかレギュラーもあやうい。本人が卓球を続けようか迷っても当然でしょう。既に天才卓球少年とかマスコミに騒がれる年下のライバルが出現しているかもしれません。だれもがインターハイに参加できるレベルまで上達するものではありません。努力とともに持って生まれた素質も必要なのです。やるだけやったのなら悔いはないはずです。一方で、客観的な成果がないにもかかわらず、本人に迷いがないのなら、応援しましょう。インターハイに出場できなくとも、インカレに出場できるかもしれません。ノーベル賞級の偉人は、けっこう遅咲きの人が多いようですし。

卓球はともかく、大学進学は就職に直結することだし、勉強をやめさせるなんて、子どもの将来が心配でできないとおっしゃいますか。でも勉強だけが子どもの将来を約束する手段ではありませんよ。かくいう私は子どもを大学に進学させていません。勝手な想像ですが、私という親の背中を見ていたからこそ、高卒で就職することを決めたと思っています。勉強の道を進むとこんなにずっと勉強し続けなければならないのかと、高校生ながら悟ったのではないかと考えています。私は現役としてバリバリ仕事をしていた55歳くらいまでは、小説を読む時間なんてまずとれませんでした。常に新技術に関する本を買ってきて、必要な道具を購入し、ハードソフト両面に投資し、仕事に遅れをとらないだけの技術を習得し続けていました。先端技術開発も多少はありましたが、大部分は遅れを取らない程度の勉強でした。

1980年代の初めから私の職歴は始まりました。文系の大学を出ても技術者になれるコンピュータ関係の仕事=情報処理技術者を選びました。そのころから20年、プラットホームはパソコンが主となり、基本ソフトウェア(=OS)が急激に進歩し、最先端技術を10年かけて習得しては、新技術出現のために半ば捨てていた時代が続きました。旧技術を捨てることができない技術者は、ある意味現役脱落。経験が邪魔になるような時代でもあったのです。20年経ってパソコンの進化が少し落ち着き始めたときには、通信ネットワーク技術が台頭してきて、携帯やスマートフォンへと必要技術はその基盤そのものが変わってきました。ソフトウェア技術の基盤であるOSは、Windowsからアンドロイド・iOSへシフトしたわけです。このような仕事環境の変化のなかでは、過去の技術的経験が新技術導入の妨げにもなりかねないのです。でもそういうときに必須なのが、コンセプトというような、変わらない大局的視点です。変化していくなかで、変わらないベースは何か、、、とか。それには、トータルな学習が必要なのです。哲学的な思想といったらよいかもしれません。

そういうなかで、私の一人息子は高卒で就職の道を選びました。高卒だから恵まれない仕事をしているのではとお考えですか。全体で400人くらいの製造業です。入社当時は100人くらいでした。今では大卒の後輩もたくさんいます。入社5年めくらいで、臨んで新工場に転勤しました。15人くらいからスタートし、今では100人超の人が働いています。そのなかで現場リーダー的な役割をこなしてきました。常に不満ばかりを口にしていましたが、私からすれば伸び盛りの企業には常にある幸せな愚痴でした。そして、就職3年目には結婚、5年目には子どもが生まれました。私は40歳代でおじいちゃんになることができました。さらに8年後にはローンを組んで家を建てました。入社15年目頃には現場を離れスタッフ部門へ配置換えされました。つまり、大卒者と一緒に入社し、大卒者と全く変わらない、むしろより幸せな人生をおくっていると言いたいのです。日本は一部の政治家が喧伝するよりは、一般市民には平等な国と言えると思います。だからこそ、良い大学に行けないと幸せになれないといった固定観念についてはよく考えていただきたいのです。

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子どもに勉強させる/していただく レベルアップ

夏休みステップアップ講座、お盆休み合宿、年末年始特別講座、、、、、定期的な塾学習をこなしていると、こんな案内パンフを受け取ると思います。実はこれをうまく利用することこそが、次へのステップアップの効果的な一助なのです。継続学習に加えて短期集中長時間学習。継続と集中、両者のミックスです。高校受験を控えた中3生の基本的な学習時間は、平日は、塾と家庭学習で4時間と言われています。3時間でも集中度合いが高ければOKにもなるでしょうが、とにかく3~4時間です。そこに、不定期であっても、集中学習を加えるのです。学校の年間行事と長期休みの合間を縫う形になります。夏休み、冬休み、春休みを中心に、ゴールデンウィークの時期や、9月のシルバーウィークの連休を利用します。気合があれば、祝日と週末が重なった連休でもOKです。さらに子ども本人がこの集中学習に意欲的であれば問題はありません。いつもと違った環境での学習で、効果をあげましょう。積極的に参加させましょう/参加を検討しましょう。入試というもの自体が、いつもと違う特別な場なのです。緊張して実力を出せなかったとか、緊張のあまり、試験直前に体調不良になったといったことがないように、緊張感のある学習機会を積極的につくりましょう。

こんな特別な学習機会は、受身の姿勢だけではないようにしたいものです。つまり、「にがてな数学の証明をできるようにする」とか、「2年までの英語文法を理解する」といったことを、自ら意識して参加する姿勢です。与えられたプリントをいやいやこなすだけでは非常にもったいない。本人の意識が最初から受け身では、すぐにいやにもなります。

 

ちなみに私の指導においては、中学生は20時間集中、高校生は3泊4日合宿学習を取り入れています。いろいろやってみて、このような期間、時間数に落ち着いたものです。ステップアップのための集中学習では、プリント問題をやらせる前に、既習範囲の完全理解をめざします。学校の予習や課題学習を自主的にこなすようにもっていくことを最優先にしています。

高校生の春休み、あるいはゴールデンウィークの3泊4日合宿では、「英語EC科目1年分の対訳ノートつくりを終わらせる」といった目標です。1年分とは、いうまでもなく英語ECの教科書の本文すべてという意味です。英語ECという1科目だけですが、1年分の予習を全部、あるいはほぼ全部終わらせることは大きな自信になります。少なくとも今後2~3ケ月分ならば、まちがいなく終了させることができます。これにより、自信とともに、学校授業が始まってからは他教科の予習復習の時間をとりやすくなります。英語ECの和訳に必要な文法は、8割程度までは既出の内容です。単語や慣用句の予習だけでかなりのレベルまでやれるのです。もちろん20センテンスに1つくらいは、教わらないと理解できない文も現れます。それを授業実施まで待つか、時間をかけて今トライするか、このような微妙な点は個人の力量次第です。

塾講師は学校の教員の代わりになって先を教えるのが仕事だと思っている方も多いでしょう。しかしながら、中学生向け塾が典型的に行う3週間先取りといった学習はあまり感心したものではありません。学校の授業で先生の説明を聞かなくなる/聞けなくなる生徒が出てしまいます。ひどい場合、学校授業の内容をほとんど覚えていないという「優秀な生徒」が現れることになります。優秀な生徒は、塾で少人数、あるいは個人向けに要領よくかつレベルにあった説明を受け続けると、それが当然と思いこみます。そのため、40人向けの授業は冗長で聞く気にならない、結果聞かないということがおこるのです。これは、高校に進学してから大きなデメリットになります。高校の科目は、量が多くかつ範囲も広いので、塾ですべてを教わることはできません。無理にやるには、1教科につき週4~5回、塾に行くことにもなります。こういった例が示すように、先んじてすべてを教えることが、最良の勉強法というわけでは決してありません。生徒個人のレベルにあったがんばりで、個人のレベルにあった予習をすることが重要です。ECの予習にかける時間を1ユニット/パート、90分とか60分とかに決めて、その時間内でやれるだけやるというような采配が、高校の学習では重要になります。無限の学習時間があるわけではありません。必要科目に対し適切な時間配分を考えて学習する必要があるのです。この意味で、数学については1年分の先取り予習を私はお勧めしません。自主学習中心で実行するには負担が大きすぎるからです。数学については、数ⅡBまで難なく習得できた生徒ならば、数Ⅲの先取り予習もよしとできるくらいのものです。

 

中学生の20時間集中では、基本的に個別対応で予定を組みます。個人の力量に応じて、20時間をこなす日数や1回に学習する時間数は異なります。理想としては、最後に1日8時間学習を体験して終わりたいと考えています。午前4時間、午後から夕方にかけて4時間。つまり、それほどの負担にはならないはずなのです。4時間集中するとどの程度の学習ができるのか、そういう自分の力量の確認が一番の目的です。中学生の場合も、私の指導の基本は、既習範囲の完全習得です。先取り学習よりは、既存範囲のレベルアップです。内容をより深く掘り下げ、難易度の高い問題に対応できる実力をつけることです。これをどう自主的にやれるようにするかが問題です。自主性やら自発的意志がないと、試験が終わったところでほぼ白紙に戻るからです。興味のないことは誰しも忘れたいのです。いやいややらされた学習内容は、急速に忘却の彼方に去って行きます。継続学習と集中学習のミックスでどう自主性を育てるか、もう一歩進めてその子ども独自の新たな発見ができるか。そこが肝心です。自力で発見した内容は、一生忘れることはありません。発見という楽しさを見いだした体験こそが、向上心・向学心に結びつきます。

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